2014年を戦った徳島IS戦士達

2014年を戦った徳島IS戦士達

一方、河野は徳島ISの本拠地である徳島県の出身。吉村と同様、高校卒業と同時に徳島ISの門を叩いた。チームの変革期に次代を担う本格派の投手として入団した河野は背番号18を背負い、地元出身選手として地域の期待を一身に集めた。
高校を卒業したばかりの河野にとって、この期待はとてつもない重圧だったに違いない。この重圧に幾度となく押し潰されそうになりながら、河野は試行錯誤を繰り返し、懸命に練習に励んだ。投手コーチ、監督として徳島ISを強いチームに作り上げた島田直也(現横浜DeNAベイスターズ二軍投手コーチ)と話をする際、いつも真っ先に名前が挙がる選手の一人が河野だった。この一事をもってしても分かるように、河野の素質や野球に打ち込む姿勢には並外れたものがあった。

2014年、独立リーグ日本一を懸けた群馬ダイヤモンドペガサス(ルートインBCリーグ)との優勝決定戦の第2戦。雨が降りしきる7回表、緊迫した場面で島田監督が送り出した投手は河野だった。対戦する打者はオリックス・バファローズでも主軸を打っていたカラバイヨ。万全の状態で臨んだ河野が投じた渾身の一球は、片手一本でバックスクリーン右のスタンド最深部まで軽々と運ばれた。夢を打ち砕く強烈な一撃。これが河野にとって最後の登板となった。

二人が引退を決断したのは、吉村が23歳、河野が22歳の時だ。もしかしたら、周囲の目には余力を残した引退に映ったかもしれない。しかし、四国ILはトップリーグでの活躍を目指す選手たちの育成の場。夢と現実の間で揺れ動き、常に不安を抱えながら自分自身を極限まで追い込まなければならない場である。それを考えれば、彼らが悩み抜いた末、自ら導き出した決断は立派だった。やり切ったという想いは、本人たちにしか分からないことなのだ。

それでも、二人が引退を申し入れてきた時、私は「今の彼らであれば社会に出ても立派にやっていけるだろう」と確信していた。それはなぜか。彼らが成功と失敗を繰り返しながら自分自身で壁を乗り越えようともがく姿を間近で見てきたからだ。また、練習や試合の合間に行われる清掃活動や農村支援事業など地域での活動を通じて、目に見える成長を遂げてくれていたからだ。
彼らは、徳島ISに在籍していた4年から5年の歳月の中で、監督、コーチ、そして、地域の方々に支えられ、社会で生き抜いていくための術を身につけたのだ。吉村は「責任感」を、河野は「逞しさ」を。

吉村と河野は引退後もそのまま徳島県に残り、現在は二人とも電気工事士として忙しい毎日を送っている。県外から野球の縁で徳島にやって来た吉村は、仕事に励んで生活を安定させ、地元の神奈川県で暮らす母親を呼び寄せたいという想いを持っている。幼少時から徳島県で育った河野は、地元に根を張り、しっかりと自立して生活を送れるよう、慣れない仕事に打ち込んでいる。

私は涙がたまりそうな感慨を悟られないように目を2人の瞳に合わせた。そこには、勝負に懸けるギラギラさとは異なる輝きが見える。落ち着きと優しさを漂わせた別の輝きが、彼らの生活の充実感を物語っている。

彼らは野球の世界では無名のまま終わった敗者なのかもしれない。しかし、私にとってはもちろん、四国ILにとっても、徳島ISにとっても、そして、徳島という地域にとっても、かけがえのない価値と可能性を持った二人であることに変わりはないのだ。

「ゲームセット」から始まる人生もある。その道のりは長く、険しい。それでも、彼らは負けないであろう。いつか、どこかで、花を咲かせるまでは。