野球が「嫌」になった帝京時代があって「今」がある

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――帝京でのカルチャーショックは相当なものだったのでは?

杉浦 入学時、同学年では15人くらい投手がいたんですが、中学硬式の日本代表など今まで見たことのないようなレベルが高い投手が数多くいました。最初はかなりレベルの差を感じましたけど、そこから1年かけでトレーニングをして差を詰めていきました。
ただ、練習は本当にキツかった。年間で1月1日2日の2日間だけ休みがあって、あとは全部練習。前田 三夫監督も一番身体が動くときで、ガンガンノックを打っていました。人生であれほどキツいことはなかったです。

――その時にはどこをウリにしようと思ったのですか?

杉浦 球速には自信はあったので、そこを磨こうと。140キロくらいは出ていました。1学年上には三澤 興一さん(元巨人、現同球団戦略室スコアラー)がおられてセンバツで優勝。三澤さんは制球力・変化球も素晴らしかったんですが、それに対して僕はスピードだけでした。でもその中で新チームになって、2年秋の都大会前に練習試合で先発チャンスを頂いたんです。

――相手はどこですか?

杉浦 藤嶺藤沢(神奈川)だったと思います。ただ、愛媛マンダリンパイレーツでの登板よりも緊張していまして、すぐ終わってしまって。結局、公式戦では1試合も登板できませんでした。

――そして、野球が嫌になってしまった。

杉浦 僕にとって「本当の野球ではない」ことが一番。当時の帝京はチームワークではなく、個々の能力の高さだけでやっていく野球。個人スポーツのようでした。中学校までの野球がチームの仲間はライバルだけど信頼している野球だったので、違うと思いました。
でも、帝京での体験がなければ「楽しい野球がやりたい」と思うこともなかったですし、今まで野球をやっていることもなかったかもしれない。今思い返せば、貴重な経験ができました。前田監督にも感謝しています。

――ちなみに、前田 三夫監督には愛媛マンダリンパイレーツ入りの報告はされたのですか?

杉浦 はい。報告のあいさつに行きました。メチャクチャ喜んでくれて「おお、プロ野球選手になったのか。おめでとう、40歳を迎えてすごいな」と言って頂きました。
ただ「高校の時から俺はプロに行くと思ってたよ」という発言には「ウソだろ。適当なこと言ってるな」と思いましたけど(笑)。

「オチ」が付いたところで前編はここまで。第2回では再び野球を始めた理由と今を支える投球技術、さらに「あの」モノマネ誕生秘話についても聴いていきます。